日曜日に、映画を観に渋谷に出かけた。安部公房が原作・脚本で勝新太郎が主演・製作の「燃えつきた地図」。

あまりに暑いので出掛けるのをためらっていたら、映画館が「席が埋まりつつある」とXにポストしていた。夕方の回に余裕を持って到着できるよう、早めに家を出たのだが、映画館に着いた時にはもう満席。開場を待つ人が立ち並ぶなか、次の回の券を買った。

渋谷で2時間、時間を持て余してしまった。早めの夕食にして、時間をつぶすことにした。餃子と唐揚とビール。これから前衛的な映画を観るというのに、ビールの誘惑に負けてしまった。

ほんのり酔って観る、前衛的な映画の勝新太郎は最高だった。疲れと酔いでウトウトしてしまうしまうのだが、それもよい。映画自体が、観ている人に夢のような体験をさせるように作ってあるのだ。ウトウトしながら夢心地で見るのも、演出のひとつ。おれの目がパッチリしている間に、他に寝息をたてている客もいて、同好の士も少なからずいたようだ。

好きな映画で何度か名画座で観ているが、今回はウトウト具合も大変よく、満喫した。ウトウトによる演出は、毎回少しずつちがう。

こういう、男が酒飲んでうっとりしながらウトウトできる映画は決まって、古い映画だ。「燃えつきた地図」の公開だって、勝新太郎の活躍した時代だって、おれが生まれる前だ。

新しい映画で、こんな経験できる映画はなかなかない。今思いつくのは山村浩二の「幾多の北」くらい。山村監督が新文芸坐の上映後に「こんな、需要がどこにあるのかわからない映画を作り続けている」と自嘲めいたネタを仰っていたのを思い出す。

新しい映画のほとんどは、おれをターゲットに作られていない。古い映画が、おれに刺さるのは不思議だ。当時は、おれのような人をターゲットに映画が作られていたのだろうか。あるいは、おれが観る機会を得る古い映画は、時の試練を経た名画ばかりだから、誰が観ても刺さるのだろうか。

新しい映画のほとんどは、主演俳優も、ふつうの男が観て没入できる男ではない。みな顔が整いすぎていて、果実のような見た目をしている。おれのようなジャガイモの妖怪みたいな男が観て、自分と同じ人間だとは思えない。
ジャガイモに男性アイドルの写真を見せても、ジャガイモは「ボクと同じ生き物だ」とは思わない。うんともすんとも言わないし、感情移入はできない。

おれの好きな映画は、需要がないのかな?いやいや、真夏日に渋谷の映画館に大勢詰めかけるだけの客がいたんだ。あの大勢がみんな、おれと同じジャガイモと言いたいわけではない。鑑賞の仕方はおれとちがうにせよ、同じ映画を好きな人があれだけいるんだ。

男が酒飲んで酔って観る映画が少ないぞ。こういう映画、もっと製作されるといいな。